昭和五十七年八月三十日 朝の御理解
御理解第四十八節
わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言う 事を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。
椛目時代の事でしたが、北野から黒岩という方が御参りをしてきておった。息子さんが 朝から居なくなったとというので、村中で夏の事でしたから、ま、川にはまってはおらんかというので川を探索しましたけれども見つからない、と言うので合楽の金光様にお伺いをして来うというので参ったんです。
そん時に頂いた御理解が、子供の事になると、それこそ鬼子母神様のように気違いのよ うになって子供を探す。そういう心になって親を大切にさせて頂かな行けませんよ、ね。私がお取次させてもらうから、本当に御先祖、または御両親ね、自分が子供の事を思う思いで親の事を思えば先祖の事を思え。もうその時に、それこそ、も、涙を流して親に不幸である、親を大事にしていない、お先祖を大事にしていない事をお詫びして帰られた。帰られたら、その麦がら家ですから二階が、二階というわけでもないですけれども、藁なんかがいっぱいあげちゃる。藁ん中で寝て下であんまり騒ぐもんだから、子供ながらも気の毒で出てこられなかったち言う、と、すぐまた御礼に出て来た事がありますけれども、子供の病気の時にはうろたえるけれども、親の病気の時に子供を思う親の情をもって、親の事が思えれるようになったら信心も一廉(ひとかど)ですね。
例えば、映画とか、お芝居なんかでも配役が素晴らしい、役者が有名な演技力をもった 役者が沢山出ておりますと、筋はどうであってもやっぱり最後まで面白く見せますし、また、それが魅力なんですね。なら、主演級の俳優がずらり、こう、顔が並んでおりますと、ま、やっぱり見てみたいという気がいたしましょうね。名もない俳優が出とったんでは筋が良い、面白かっても一つ見てやろうという気がせん、ね。一人一人の演技力が魅力なんですね。芝居でも映画でも、やっぱそうです。
よう似とるでしょうねえ。合楽で皆さんがこうして、皆さんが一生懸命信心の稽古をな さっておられるその演技力がね、身に付けるという事は、私はね、まず今日の御理解とは少し違うように思いますけれどもね、ここでは、いわゆる可愛い子供であっても、親はうろたえるのが当然ですけれども、そん時にうろたえんですむ信心ね、そういう信心を身に付けるという事、同時にですね、子供を思う情念をもって親の事が祈れたり思えたり、お先祖を大切にせずにはおれないというような人達が、私は合楽の第一の演技者だと思うですね。そういう信者が増えたら、合楽教会はもっともっと御比礼が輝く事だろうと思います。合楽と言うただけで、と、こう聞かずにはおられん、見らずにはおられんというような事になって来るわけ、ね。
なら、どういう合楽理念をマスターする、実験実証という事でもですね、私はここで初 めてお参りしてくる方達には、大体そんな意味の事を申します、ね。親に不幸しようというような子供はそげん沢山なおらん。いや、孝行したいと思っておる、皆が思っておるけれども出来んだけの事である。親孝行というにはね、出来ん。そこを出来る心掛けを持つ事が親孝行なんだ。親に喜んでもらわずにはおられん、安心してもらわずにはおられんという心、そういう心を起こすとね、そういう心が神の気感に適うから、あんたの願いが成就するよというふうに申します。
子供の時に、それこそ鬼子母神じゃないけれども気違いのようになって、なら神様にも おすがりするとかね、願うとか致しますけれどもね、そういう子供を親が思う情念をもって親の事を思え、ね。どうぞ神様、私にはね、親を大切にさして下さい、ね、というような願いを持つ時に子供は助かるね。
ここで、ま、演技力というような言葉を使いましたが、例え可愛い子供が、なら病気を 致しましても今いうように、なら、それこそ川に落ち込んでおらんかというて心配するような時であってもね、そのいうならば時に放っておいて信心してやれというような信心のいわば技量というものをね、ま、信心度胸といってもいいでしょう、ね。または、子供を思う以上の思いで親に切実心をもって、お先祖に切実心をもって大切にしなければおられない心、そういうまあ演技力が身に付いて初めて合楽理念が生き生きとしてくると思うですねえ。これは、まあ普通の人間の常としてですね、結局子供の事を思わない親はありませんからね、一生懸命になるのも当然ですけれども、信心とはより大切なものを大事にする事を教えるのですね。
私の信心初め、私も大体親孝行という事であったら、人後に落ちないつもりでおった。 親に喜んでもらおう、安心してもらおうと思って海外、当時の中国に渡ったわけでございましたがね。終戦、そして引揚げ、帰って来てね、その親孝行したい、喜んでもらいたいというて親に二度三度のお食事もね、思うままにならんような事であっては、もう、これはもう、いよいよね、ま、私の信心は親に孝行したいばっかりだったのですからね。
もう、親が、例えば亡くなったら、も、その明くる日からまた貧乏してもよいからどう ぞ、当時商売してましたから、商売繁盛のおかげを頂かして下さいというような、ま、いうなら天地の親神様の心に通うたような信心を一心発起して、今までおかげおかげの信心から本当な信心に少しなってきた。
そして、段々そういう信心を本気でさして頂きよったら、親以上の親のある事に気が付 いて、それこそ親に不幸して神に孝行してといったような信心が始まった。ね、後に孝行せよという、そういう御教えにこちらが、ま、準じていく事になってきたね。
子供を思う親の心、その心以上の心で親を思う。そして、その親のまたもう一つ上の親 がある事に気付かしてもろうてね、その親の心に適う、その親に喜んでもらえる信心になる時に初めてね、天地日月の心を心とする信心が出来ると思うんですね。
子供の時に一生懸命なる人は沢山おりますけれども、親の時に、そういう一生懸命にな れれるいうならば親思いの信心、又は、子供が病気の時にあわてんですむ信心技量、そういう技量が身に付く信者が沢山出来たらね、それこそ合楽というただけで皆が合楽に傾倒してくるでしょう。
それは、主演級の役者が何人も出ております。例えば映画とか、お芝居というのは魅力 があるように、また事実一人一人の演技力が素晴らしくて、やっぱ見らずにおれないようにね、私どもの信心を思うてみたい。親の事をどの程度に、先祖の事をどの程度に思うておるか考えておるか、ね。
も、本当に親孝行せやん事はわかっっとるけどもと言う人は沢山おりますけれども実際 は出来ん。だから、もうせずにはおれんというものにならないと、本当の親孝行にはなれない。そういう演技力を私は身に付けたい。
今日の御理解はね、いわゆるままよという心、子供の病気の時にはあわてるような事が あっちゃならん。も、放っておくような気持ちで神にすがってやれ、おかげになるとこう断言しとられます。ね、だから私、そういう時にね今の北野の黒岩さんじゃないけれどもね。はあ子供が水に溺れてどんおらんだろうかと、本当に心配で心配でたまらないね、だから、どうぞ子供には親の心をわからせて下さい。私には神様の心をわからせてくださいといったようなね、信心が私は、ま、いうならば一廉(ひとかど)の信者というような魅力を発揮する信心というふうにいえると思うんですね。
どうでもね、信心というものはこうせなならんじゃなく、そうせずにはおれないという もんでなからないかんです。教えを行ずるでもそうですね。親に孝行せずにはおれない。そういう心が信心によって育っていく時に、私はね、ま、いうたら真の信心、真の信者。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると本当の信者じゃとおしゃるが、そういう信心がわかる為にはまずその人が親に対する孝心[孝行心]というものがどれほど切実なものであるかというような信心が分からねば、あれもおかげ、これもおかげといったような信心は分からないと思うですね。
今日は、私、今日の御理解にちょっと反するかも知れませんけれどもね、合楽で、そう いう主演級のね、人達がどれほどおるだろうか。
熱心です、信心は熱心です。ね、あ、子供の事になったら、も気違いの様になって信心 する人は、ま、多いけれども、親の事のためにですね、ま、いやなら、親孝行、も、親に孝行しゅうごつしてたまらんというようなね信心は少ないと思うね。だから、それをそういう心の状態が頂ける為にね、又はそういう信心を頂ける事の為に、改まるところは改まり、磨くところは磨いての信心姿勢というものが出来て来なければならんというふうに思いますね。 どうぞ